2012年3月16日金曜日

屋久杉(縄文杉)とレバノン杉



 《屋久杉(縄文杉)とレバノン杉
 「屋久杉(縄文杉)とレバノン杉

 ウィキペディア百科事典によれば

 「屋久杉は栄養の少ない花崗岩の島に生え、成長が遅く木目が詰っており、

  降雨が多く湿度が高いため、樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つ。

  そのため樹木の寿命が長いといわれ、樹齢2000年以上の大木が多い。

  縄文杉や紀元杉、ウィルソン株が有名である。

  縄文杉の樹齢は古くとも4000年以上はさかのぼらないとするのが定説になっている。

  レバノン杉はマツ科ヒマラヤスギ属に属する針葉樹。

  良質の木材であり、古代に建材や船材に利用されていた大型の樹木である。

  古代においては、中近東一帯に広く自生していたが、伐採利用が大規模に進んだ結果、

  レバノン杉の森は消滅し、

  現在においては、

  レバノン等のごく一部の地域に小規模に残存するのみとなり、保護扱いされている。

  またレバノン杉は、紀元前にフェニキア人の繁栄の原点になったことでも有名である。

  フェニキア人は、当時レバノン山脈全域に自生していたレバノン杉からガレー船を始め、

  船舶の建造材として使用。また、木材や樹脂をエジプトなどに輸出していた。

  レバノン杉は長年の伐採がたたり、2004年現在は1200本程度が残るだけになっている。

  また樹齢1200年以上のものが、400本ほど残っている。」と書かれています。

 ※出典:Wikipedia:   
     Wikipedia:縄文杉
     Wikipedia:レバノン杉

 これから話題にするのは

 「屋久杉(縄文杉)はレバノン杉を移植した」という事実の確証である。

 フェニキヤ人は、そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、

 その新しい移動手段を活用して、

 さらに新しい交易を考案実行し、富を築き国土を拡大して栄えた。

 その基礎になったのは、船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、 

 加工し増殖する学術を発展させたことで、それが彼等の文化の著しい特徴である。

 『日本書紀』にはスサノオの尊が、

 子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、

 髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、

 それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、

 尊の皇子・五十猛の神と共に、

 樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。

 『旧約聖書』のエゼキエル書に

 「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、セニルの縦で汝の船板を造り、

  バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」

 と書いてあり、

 フェニキヤ人以後、こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、

 今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、

 フェニキヤ人はまさに文字通りの「船木屋」だったことを証言している。

 スサは、そのイラン植民地の大都市であり、

 そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、

 当時世界唯一のフェニキヤ文明(B.C.E.1500~B.C.E.667)

 我が国に入って造船や植林産業を起こし、 

 そのための必須教養として植物学知識が、

 説話様式による古代教育に新たに加えられた史実の『確証』である。

 彼等の別名・カナンにも何かの関連があるのか?。

 彼等はアブラハムの子孫だからウル出身で、

 ウバイド人であり、

 その位置はチグリス、ユーフラテス2大河の南、

 漢字で書くとまさに「河南」の人なのである。

 これは不思議ではない。

 漢字はもともと殷の文字で、もとはウバイド語だった。

 言葉は土着するから、

 移住者は移住先の言葉で話さないと、食物も買えないで滅亡してしまう。

 たとえ征服者でも先住民の言葉には勝てない。

 自分達が使ってきた言語の大半は子孫には伝わらない。

 しかしスサといった名乗りは残る。

 ノアの大洪水は間違いいなく2大河のそれだったからスサも水没した地域にある。

 スサノオはその名乗りと共に先祖が遭遇した大洪水の記憶を我が国まで持ってきた。

 船は必需品だと言ったのである。

 フェニキヤ文明は箱船の知恵を継いだ産物であり、

 スサノオは名乗りだけでなく歴史も受け継いだ。

 言語以外の証拠はまだある。

 それはスサノオ父子の「樹種(こだね)」の子孫である。

 『日本書紀』にある一書には

 「五十猛命が天降った時、多くの樹種をもって下ったが、韓地には植えず、

  ことごとく持ち帰り、筑紫から大八洲中に播かない所はなく青山にした」
 
 とあり、

 その次の一書に、前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、

 杉と楠は船に…、檜は家屋に…、填(まき)は死者を葬る棺材にせよ。と命が言う。
 
 この杉と楠と檜と槇は今も我が国に現存しているが、

 全て列島古来の野生種ではなく、

 外部から持ち込まれた輸入品を栽培し続けていることが判っている。

 『日本書紀』のこの記事が真実だという生きた物証である。

 それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、大量に残っている。

 それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。

 宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、

 その樹齢3000年を超えると測定された古木で、

 ここ以外にそんな樹齢の杉はない。

 1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、

 それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、

 この島の杉がスサノオらが最初に植林した遺跡だということは間違いない。

 このスサノオの話は神話ではなく史実だった。

 その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、

 杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。

 それはフェニキヤ文明の到来が3000年以上前であったことを、

 今も立証し続けている動かぬ証拠である。

 今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、

 『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、
 
 3000年以上前にスサから来た王が植えたものだったことを疑わせない。

 在来、疑わしい神話の、疑わしい架空の「神」とされて来たスサノオが、

 実際には実在していて、その伝承通りの植樹をし、

 その木が今も生きているからである。

 ところが垂仁天皇も、皇子のホムツワケも、

 他のスサノオ伝承に一致する点がある。

 彼等は3世紀の実在者と確認できているから、

 スサノオは一人ではなく、

 「スサの王」という名乗りだったと確定できる。

 重要なことは、

 スサノオ植樹が史実だという確認は、

 屋久杉が外来植物だという確認であり、

 原産地はどこかが問題になる。

 屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、

 運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。

 とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。

 それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。

 だから屋久はレバノン杉そのものだったのである。

 『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、

 今でも屋久島で見られるのである。

 しかし今から三千何百年か前、

 フェニキヤ人スサノオは何故?交易でなく、

 木の種子をもって我が国へやってきたのだろう?。

 答は彼の教えにある。

 彼は

 「我が子孫は船をもたなくてはいけない」と教え、

 我が国にだけ植物を移植したのだから、 彼は日本列島を基地にして、

 海運や交易事業を継続し、子々孫々まで永住するために来たのである。

 それは当時シリアなどに都市国家群をもち、

 繁栄の極にあったフェニキヤ人が、

 なぜか選りに選って、

 世界の東端の、絶海の孤島といいたい程の

 この日本列島に住もうとやってきたということである。

 そして韓国には種子を蒔かず我が国にだけ蒔いたというのだから、

 これは熟考した上での決定的行動である。

 一体、何がそうさせたのであろうか?。

 今から3200年前

 B.C.E.1200年、

 エジプト第20王朝のラムセスⅢ世が、そのシリアを征服し、

 他の植民地から救援に駆けつけたフェニキヤ人たちも次々に撃破された。

 全く同時にギリシャのトロイヤ侵略も進んだ。

 フェニキヤ人の楽園が大動乱のうちに奪われた。

 それはもちろん遠く離れたスサにも伝わった。

 やがてはスサも同じ惨劇に見舞われると予測したスサの王は、

 遠隔の安全地帯にあって、

 好条件の揃った希にみる楽土だと知っていた日本列島への移住を、

 熟慮の末、実行に移したのである。

 フェニキヤは「船木屋」の日本語になっているのである。

 考えればそれは三千年以上前に日本語化したのだから、

 当然のことなのだが、

 それが今の標準語と少し、ずれがあるために疑われるのである。

 このことは逆に日本語の歴史を考える上では貴重な文化財だということになる。

 フネの部分はフェニだから、エ音が消えている。

 このことは我が国の言語分布からみて、e音の無い沖縄語のためだと解る。

 それにはもう一つ根拠がある。
 
 エ音が取れるとフニになるが、沖縄では現在も船をフニと発音している。

 さらにもう一つ沖縄へ先に入ったという理由がある。

 それは船乗りのことを古い沖縄語では「フ ニ チュ」という。

 これは原語を並べてみると、明瞭に語源が浮かび上がる。

 「フェニ キヤ」

 沖縄語のチは標準語のキであり、

 yuはyaと書くと一層よく相互関係が理解できる。

 フェニキヤの名が、三千数百年という歳月を経ても、

 一字一音も欠けることなく、

 こんなに見事に保存されていたのである。

 これもフェニキヤ人が間違いなく沖縄に入り、

 以後に本土に入ったという貴重な証拠の文化財なのである。

 その「フェニ キ」が、

 もう一方では「船木=フナキ」という姓などの名詞になっている。

 これはキ音があるので沖縄以外の土地のものである。

 南九州には「無い」を「ネ」と言う土地と、「ナカ」と言う土地とがあった。

 今では様々な言葉が混用されていて、どこのものか断定できないが、

 山根と山名という姓があり、鹿児島県に阿久根、大根占があり、

 熊本県に玉名市があるから、

 フナは熊本語とみても大きな間違いはない。

 それはさらに次の事実を証言している。

 それは名詞語尾の「キ」はイサナキのキと同じで王称だということである。

 だからフナキは船王(キ)であって、海人王を意味していたのである。
 
 『住吉大社神代記』には船木 連(むらじ) 宇麻呂は

 神功皇后に舟を造って奉ったので、船木姓を賜わったとある。

 その所領の船木村は播磨の国、明石郡にあり、

 遠祖は大田田根子の児、神田田命とあるので、

 彼はインド経由で来た一族だったことが解る。

 カンダタという名は、

 有名な仏教説話『蜘蛛の糸』の主人公の名である。

 だからスサノオはフェニキヤのスリランカ拠点から、

 カンダタという名のインド人を乗せてわが国へ来たのである。

 神田田命は所領・九万八千町余の大富豪だったともあるから、

 フェニキヤ流の経済学は、

 ずっと後世まで健在であり、

 また履中天皇の妃・太姫郎姫(いらつめ)と

 高鶴郎姫との父がフナキワケ王と読める名をもっている。

 これらもフェニキヤ人の来住が史実だったことの不動の証拠だ。

 こうしたウバイド、フェニキヤ、ギリシャなどの西方文化の渡来は、

 在来はすぐシルク・ロードによるものと即断されがちであった。

 しかしシルク・ロードの物資は、

 すべてが陸上運輸であって、海運によるものではない。

 その時代も、正倉院御物が証明するように、倭国が日本と改称した時代に、

 中国に唐という大消費者国が生まれたからであって、

 フェニキヤの海上貿易時代とは2000年ちかい差があるのである。

 そしてさらにスサの王の目的は海上交通にあって、

 ラクダで砂漠を越えて荷を運ぶことではなかった。

 屋久杉たちは海上を運ばれて釆たのであって、

 乾操で苗がすぐ枯れてしまう砂漠を通って、

 のろのろと運ばれて来たものでは絶対にない。

 我が国の古代文化はより高い海人文化だったのだ。

 乗り物の発達が経済に大きくプラスすることは20世紀が証人である。

 太古の船はまさに自動車や航空機以上の経済と武力の格差を生んだのである。

 それに次いだのが馬やラクダだった。

 それは12世紀のモンゴルによる欧州席巻を見れば瞭熱である。

 だから.正倉院御物中にも海上を運ばれてきたものが当然ある。

 これほど我が国の古代文化に、大きく影響したスサとは、どんな国だったのか?。

 イラン西部を潤すケルカ河に沿って生まれたこの国は、

 地下60mに遺物層をもつので、

 現在から七千年前には人が住み、

 ウバイド遺跡の古層が発見された湾岸戦争直前までは、

 世界最古の文明発祥の地だとされていた。

 事実、その先進文化は西に広がってチグリス河を越え、

 都市国家群を次々に生み出しながらバビロンの大文明を作った。

 我が国へ来たスサの王は、

 決して大国に追われて逃げてきた小国の難民王ではなかったのである。

 それは、紛争を恐れたのではなく、

 むしろ動乱の時代を予測して、積極的に新天地に理想世界を築こうと、

 人類始まって以来、誰も実行したことのない、

 国家単位の巨大規模大遷都を決行したのである。

 レバノン杉の移植も、数名の王族が種を袋にいれて山に登り、

 木切れで穴を掘って植えてまわったのではなく、

 大規模な作戦計画に基づいて大船に杉の木を積んできて、

 大勢の家臣たちが担いで登り、技術的な植樹が行われたからこそ、

 三千年を越えても繁栄を続ける植林事業が確実に根付いたのである。

 それは彼等の都市国家革命が波及して出来たエジプト文明が、

 あの巨大なピラミッド群を残していることで、すぐ推定できる問題でしかない。

 また同行した人々も、スサ人だけではなく、バベルに至る各国民がいたのである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録35」

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿