2012年1月19日木曜日

古代オリエント史(スメル小史)=ウバイドの発生と発展の背景



 《古代オリエント史(スメル小史)=ウバイドの発生と発展の背景

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 ウバイドの発生と発展の背景である古代オリエント史を、

 見易く整理しておくことに使う。

 在来のオリエント学説では、

 オリエントの最古の集落遺跡は、

 イランとイラクとトルコの周辺に散在する農排と牧畜による

 食料生産経済発生に伴う遺跡群で、

 紀元前7000年頃のものであろうとされていた。

 続いてメソポタミヤ北部

 紀元前6000年頃新石器を使う人々の村落跡が発見され、

 サマッラで最古の感慨農耕施投が見つかっているが、

 ウバイドが属するメソポタミヤ南部には

 せいぜい紀元前5300年頃の集落遺跡しかないとされていた。

 しかし1980年代にウバイド遺跡の洪積層の下に、らに古代の遺跡が見つかり、

 発掘調査の結果、それが8000年前のものだと確認されたが、

 折悪しく発生した湾岸戦争で中断し、それ以上の進展は見られないから、

 考古学的な実態は今のところ不鮮明である。

 私たち倭人の子孫としては、ウバイドという祖国の発生年代は、

 是非知っておきたい大問題である。

 調査の再開が待ち望まれる。

 発生時期はマルドゥク信仰などでバベル族が分化した頃であるということになるが、

 その決定方法などをお考えになってお教え頂きたい。

 メソポタミア(MESOPOTAMIA)

 B.C.E.3300~B.C.E.2800:先ウバイド(PRE UBAIDO)


 スメルの人々はウバイドたちを滅ぼしたのではなく、

 支配下において組織し、次第に都市国家化を進めていった。

 そうしてニップル、ラガシュ、ウル、ウルク、キシュ、エリドウなどの都市国家群が発達し、

 ウルクには都市の中央に高層建築・ジグラットが聳えるまでになったので、

 その時代をウルク期と呼ぶ。

 このジグラットが見落としてはならない標識と絶対的な力をもつ証拠になっているのだ。

 それがスメノレの遺跡ニツプルのジグラットと、

 インダス文明の代表遺跡、モヘンジョ・ダロのジグラットとである。

 B.C.E.3300~B.C.E.2800:ジェムデッド・ナスル期(JEMDET NASR)


 B.C.E.2800~B.C.E.2350:シュメル初期王朝(SUMER)


  B.C.E.2600

  ウンマとラガシュは、

  巨額の財源になるその土地(聖書のエデンの園)の領有権を主張して戦闘する。

  B.C.E.2500前後

  ウンマとラガシュは、

  巨額の財源になるその土地(聖書のエデンの園)の領有権を主張して戦闘する。

 B.C.E.2350~B.C.E.1950アッカード・新シュメル(AKKAD-NEW SUMER)

  B.C.E.2300頃

  サルゴン王によりウルク王も50の都市国家も降伏して支配下に置かれ、

  旧メソポタミヤは二分されて北はアッカドになり、

  南半分がシュメルということになってしまった。

  サルゴン王朝もウルの代官だったナンムによって5代で滅ぼされ、

  ウル第3王朝が紀元前1955年まで続いたが、これもアムール人に滅ぼされた。

 B.C.E.1950~B.C.E.1698イシン・ラルサ

  シュメールの都市国家イシンとラルサにアムール人の強力な王朝が生まれ、

  アッカドのバビロンその他にも中小のアムール人王朝が造られた。

  しかしそれもラルサ王のリム・シンに奪われて長続きはしなかった。

 リム・シンはエラムのヤマトバルを都にした。

 B.C.E.1830~B.C.E.0796:バビロニア王国(BABYLONIA)

  B.C.E.1792

  法典で名高いハムムラビ王が即位した。

  ヤマトバルでリム・シンを捕虜にしたのはバビロン第1王朝のハンムラビ王だった。

  ハンムラビ王はハンムラビ法典を制定したことで有名だが、

  それは、今はイラン領に入っている古代エラムの都市国家・スサで1901年に、

  法文を彫った石碑が見つかった。

  カルデア人はセム族で、紀元前1200年前後から南バビロニヤに定住した。
 
  その前後に我が国までやってきた人々もいたのである。

  その大移動当時に、東進してインドからミャンマー、タイ、台湾、トカラ諸島を

  経由して、南九州から稲敷にまで至り、次いで中国に最初の帝国・殷(商)を建てて、

  その文化圏を拡大した。
 
 B.C.E.1450~B.C.E.0933:アッシリア(ASSYRIA)


 B.C.E.0933~B.C.E.0625:アッシリア帝国(ASSYRIA Emp.)


 B.C.E.0625~B.C.E.0538:新バビロニア(NEW BABYLONIA)


  カルデア人は紀元前7世紀にそれまでの支配者だったアッシリヤを倒して

  新バビロニヤ帝国をつくった。

  有名なネプカドネザルは2代目皇帝で、そのときが最盛期

 B.C.E.0538~B.C.E.0330:ペルシア帝国(PERSIAN Emp.)

 B.C.E.0330~B.C.E.0305:マケドニア

 B.C.E.0305~B.C.E.0250:シリア王国(SYRIA)

 B.C.E.0250~A.D.E.    :パレスチナ(PALESINE)

 シリア(SYRIA)・パレスチナ(PALESINE)

 B.C.E.5750~B.C.E.1230:ウガリット文化(UGLIT CUL)

 B.C.E.1700~B.C.E.1270:ミタンニ王国(MITANNI)

 B.C.E.1500~B.C.E.0677:フェニキア(PHONICIA)

  B.C.E.1200年、エジプト第20王朝のラムセスⅢ世が、

  そのシリアを征服し、他の植民地から救援に駆けつけたフェニキヤ人たちも次々に撃破された。

  全く同時にギリシャのトロイヤ侵略も進んだ。

  フェニキヤ人の楽園が大動乱のうちに奪われて行ったのである。

  それはもちろん遠く離れたスサにも伝わった。

  やがてはスサも同じ惨劇に見舞われると予測したスサの王は、遠隔の安全地帯にあって、

  好条件の揃った希にみる楽士だと知っていた日本列島への移住を、

  熟慮の末、実行に移した。

 B.C.E.1230~B.C.E.0932:ヘブライ王国(HEBREW)


 B.C.E.0932~B.C.E.0722:イスラエル

 B.C.E.0932~B.C.E.0588:ユダ(JUDAH)

 B.C.E.0625~B.C.E.0538:新バビロニア(NEW BABYLONIA)


 B.C.E.0538~B.C.E.0330:ペルシア帝国(PERSIAN Emp.)

 B.C.E.0330~B.C.E.0305:マケドニア

 B.C.E.0305~B.C.E.0064:シリア王国(SYRIA)

 B.C.E.0064~A.D.E.0030:ローマ領

 B.C.E.0037~A.D.E.0044:ユダヤ王国

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